ココイナ~解離と離人と夢の中で~

解離性、離人、現実感の喪失と、消えるだけの毎日について

今の私の記憶の欠けについてーエピソード記憶

※これが、今の私の記憶のありかたです。

 

 

私は文章を書くのがあまり得意ではない。

 

そのせいか、自分の今の状態が誰にも理解されないという状況にある。

 

家族に関して言えば、理解以前に私の内面(心の状態)に興味がないから期待すらしていないが

 

支援者や担当医(今まで関わった)に、理解してもらえたと思えたことは、少ない。

 

こと、記憶については、その状態である本人にしかわからないのだと思う。

 

 

私には、「思い出がある」という状態がわからない。

 

本人である私は、この状態が異状と気付いていなかった。

ずっとそうだったので、特に違和感がなかった。

 

気付いたのは、ここ一年ほどのこと。

 

元々うつ病で通院はしていた。

それについては、今のところ状態は良好ではないが問題は変わらずなので置いておく。

 

人間関係のトラブル、職場でのトラブルがあった際に、上司から「健忘?」と心配された。

 

それまで、変だと思わなかった。

 

記憶力が著しく悪い人間なのだと思っていた。

 

事実、短期記憶長期記憶ともに、検査上で問題があるとはされているけれど。

 

「思い出を想起する」ということが私には困難なことである。

「想起する」ということが、わからないのだ。

それは、映画や小説で用いられる特別な能力なのだと、フィクションなのだと、捉えていた。

 

それを人に言っても、あまり伝わらない。

会話もできて、生活もある程度はできる。

無理して背伸びをすれば健常者に見える。

 

だから、表現が難しい。

 

「五感で感じた事柄を想起する」ということが、できない。

 

耳で聞いたことを、見たものを、など起こったことをそのまま記憶に残すことができない。

 

「昔、四万十川に行ったよね」と、例えば家族に言われて

 

私が覚えているのは「四万十川に行った」という言葉での事実だけだったりする。

 

四万十川がどんな川だったのかや、何をしたのかは、わからない。

 

ただ「家族と四万十川に行った」ということだけ、頭にある。

 

幼少期の思い出の話だけなら、忘れたことにしてしまえばよい。

 

私は昨日の記憶もそのような感じだ。

 

・昨日は、役所に行った

・病院に見まいに行った、パンを持っていった

 

ということ、を覚えている、くらいの日々だ。

 

もう少し言えるのは、

・役所の人が対応が悪かった

・役所の人が怖かった

 

くらい。

 

ここにも、問題があって、

・対応が悪かった、の対応がどう悪かったのか覚えていない

・怖かった、という言葉で記憶しているが怖いという感情がない

ということだ。

 

記憶に感情が伴わない

 

記憶に感情が伴わないということは、失敗を反省したりすることがおそらく本質的にはできていないのだと思う。

 

同じ失敗を繰返す。

 

自殺未遂をするほどの、嫌なことがあっても、今その自殺未遂のことを考えてもなんの感情もわかない。

たぶん推測すれば、家族に迷惑をかけただろう、医者に迷惑をかけただろう、と思い謝罪するが、それ以上に考えることがあまりない。

 

記憶にないから。

 

人としてはどうなのだろうと思う。

 

 

ここまで書いてみたけれど、あまり人に伝わるようには書けていないと思う。

 

こんな書き方をすれば、感情がないように見えてしまうけれど、感情が荒れる日もある。

理由はたいてい些細なことだ。

孤独感でつらくなることもある。

人に依存しようとすることもある。

当たり散らすこともある。

 

ただどれも子供じみて場当たり的で、振り返ることはない。

 

 

転居する前の医者(担当医と発達の検査の医者)からは、解離性障害を疑われた。

一人はハッキリとは言わなかったが、幼少期のいじめや虐待についてきかれた。

 

しかし、これといった大きな不幸のない人生であると思う。

幸せもない人生であるが、事件も事故もなく、学校では孤立していたがいじめられたことはなく、親は学力主義ではあるが虐待もなく普通だ。

 

解離するほどの何かもない。

 

今の医師は、どう考えているのかは実際はあまりわからない。

治療には積極的ではない。

 

トラウマを掘り起こす可能性があるからだ。

 

しかし、自分では断定できるほどになんにもない人生である。

 

 

解離性障害、と言われるのは、離人感が常にあるからだ。

 

常に、ではないか。

 

稀に現実感があると、タナトフォビアでより自殺を考える。

 

 

離人感とはこれも私にとっては普通のことだ。

 

ずっと現実感がない。

本の中の世界を生きているような感覚で、人生のことをゲームみたいに感じる。

 

失礼な言い方だが、他人の中身がコンピュータだったとしても、違和感がない。

村人Aなのだ。

 

私の設定の世界でしかない。

 

理性では、そんなことはないと理解をしている。

感覚では、そうとしか思えない。

 

妄想の世界にキャラクターが何人いるのかはもうわからない。

それは、幼少期で終わるはずの世界が終わらなかったから、しかたないのだが、

時には、自分と自分で会話するのと同じように、キャラクターと会話することもある。

普通に話しかける。

道端でそうすることもあるので変人に思われないかは不安だ。

 

これは、もちろん、人格解離ではない。

 

とはいえ、慰めてくれてアドバイスをくれる友人は頭の中にしかいない。

 

学校を生き延びられたのはそういう世界があったからだと思えば、感謝しかない。

 

 

 

書きたいことを書ききれてはいないけれどこれが今の私である。

 

 

最後に、今の私は主人格なのかと私は時々疑問に思う。