ココイナ~解離と離人と夢の中で~

解離性、離人、現実感の喪失と、消えるだけの毎日について

「ねこ」と政治利用について

今週のお題「ねこ」


「お題」について、ここのブログて書くのもなぁと思ったけれど、昨日とても嫌な気持ちになるものを見たので書いてみようと思います。

私は、ねこが好きである。
一緒に暮らしているねこが一番好きだけれど、どんなねこでも幸せになって欲しいと思う。

殺処分される、虐待される、不要に殺される、などの不幸がなくなればいいと思う。

ねこを安易に捨てたり酷い飼い方をする人は、恥ずかしい人間であり、その報いを受けたらいいと思う。

ペットショップで値段をつけてねこを売買する文化がなくなるといいと思う。


とにかく、人がねこをその手で飼う限り、ねこが「人間に好き勝手利用されること」をなくすことは無理なのだが、できる限り「利用しない」ということを頭において暮らしたいと思う。


この「利用する」について、思うところがある。


例えとして適切といえるかはわからないが、

「意思疏通のできない相手」を「政治活動に利用する」ことは、正しいことなのだろうか?

自分の思想や主張のために、「自分の意思を表明できないけれど、生きて存在しているもの」を利用してよいのだろうか。

私は疑問に思う。


Twitterで、「ねこのための党」というような主張で活動をしている人がいるのだが、


ねこの写真の横に「憲法改正反対だにゃ」みたいな文字が書いてあるポスターを作成していたりする。
※「」の部分は正確ではないので気になる方は検索してください

それを配布したり、その思想とねこを並べたバッジを販売しているのだ。

さも「ねこがそう思っている」かのように。

「ねこのための党」といえば、例えばねこのシェルターを増やすだとか、保健所での殺処分を減らそうとか、それならばまだ理解できる。

果たして、ねこと「憲法改正」「原子力発電」「政権批判」は関係あるのだろうか?

関係あるのだろうか?などといえば、恐らく戦争になればねこの生活に影響が~などと反論をするのだろうが、もし自分の思想と異なる人が同じ手法を同じ論法で用いたとしたら、それでも不快にはならないのだろうか。

ねこの意思を人間は理解できないのに、なぜねこと己の主義思想をイコールで結びつけるのか。

意思の表明できない生き物に、そういったことを「押し付ける」ような活動は認めるべきではないと思う。

意識不明の人間に、全く知らない誰かが本人の主義主張と関係なく書いたプラカードを持たせてその人の主張のように写真をとる人がいたらもう恐ろしい人間だと思う。

それと同じなのだ。


私は、その人々の政治的思想や主張について意見したいわけではない。

私は、そのことを批判はしていない。


しかし、ねこを好きだからこそ、「ねこを自分の活動のために利用する」ことに不快感を抱くのだ。



私は、ねこは好きだ。
しかし、ねこを「己の利益のために利用しよう」とする人間は嫌いだ。



なにより、うちのねこはかわいい。
政治の話はわからなくても、ねこはいるだけで十分立派なのだ。