自分が適度に苦しい思いをすると心地よい
「自分が適度に苦しい思いをすると安心する」
そう書くと性的にマゾヒストなのかと誤解されそうだが、そうであることは否定できないがそうとも言い切れないという曖昧な答えになってしまう。
きっと私は、私を虐待することが好きなのだ。
自分自身にたいして、サディストでありマゾヒストでもある。
私は私をネグレクトする。
そこにいるのは、ネグレクトする自分とネグレクトされる自分だ。
セルフネグレクトとしての、風呂入らず、着替えせずは、1ヶ月を越えて継続中だが、自分がみすぼらしく汚ならしく臭くなっていき、それでもなお自分の世話をしないということに、自分への罰を感じる。
この汚なく臭い私が、私の存在価値そのままを表しているように思えて、自分が汚なく臭い状態でいることが私のアイデンティティーそのままだと思う。だから、汚くあることがひとつの許しなのだ。
こんな無価値な人間が風呂になんて入って良いわけがない、着替えなんかして良いわけがない、そう被虐的に捉える一方で、風呂に入れてやらない、着替えさせてやらない、風呂着替え禁止によってこの自分を苛め抜きたいと思う嗜虐的自分もいる。
断食は今は続けておらず、毎日一食と下剤で過ごしているが、断食も、同じような理由で自分で自分を「死んで良い存在」「無価値な存在」に位置付けることで安心したのだ
「断薬して薬を与えない」これはセルフネグレクトかとおもう。
けれど今回は医者から懲罰的に、オーバードーズ(少し)をしたからという理由で処方されてないのでこれは私が選んでというよりは医者の理由だ。
精神科の薬には離脱作用があり、断薬は地獄の苦しみだ。
今まで飲んでいた薬を一気に減らすのは本当はやってはいけないことだ。
でも、医者がそうしようと思ったのだ。離脱作用に苦しむことを、オーバードーズの罰にしたかったのだ。
でも、薬を飲ませてもらえない自分、虐待される自分というのはいい。
とくに、離脱症状で身体的に苦痛が伴うのだ。
分かりやすく壊れる自分が、とても安心だ。
医者がそう望んだのだと考える度に、より安心する。
こんな苦痛を感じて生きてることに。
医者が私に苦痛を与えようと断薬させてくれてなら医者からのこの憎しみもまた、私を埋めてくれる
リストカットをするときも、「切って楽しいと思う自分」と「切られて痛い自分」がいる。
どっちが本当なのかはよくわからない。
ものをなくす度に、問題を1問を間違える度に「ごめんなさいごめんなさい」と言いながら、辞書やゲンコツで自分で自分の頭を殴り続けるのを繰り返した小学校から中学高校時代。
あれがこの自虐の始まりなのだろうと思う。
私は私を虐待する